草創は少なくとも平安期。上田市内の古刹としては、ここが最右翼でしょう。 長く続く石畳の参道から、一段高くなった場所に山門、本堂を構えて、まさに大寺というにふさわしい堂々たる構え。真田昌幸の上田城築城に際し城の鬼門除けのためにここに移されたものです。
もともとは海野郷にあった開善寺を、真田昌幸が移転したとのこと。真言宗のお寺です。境内はとても気持ちよく、こころが落ち着きました。
ここには大変な数の桜の木がありました。花の季節には若干早い時期だったのでまだ、つぼみ状態でしたが、開花すればさぞかし美しかろうと推測出来ます。ここは1583年に真田昌幸が上田城を築城した際、城の鬼門除けのために大手の東北にあたる当地に隣接の東御市から移転させた寺院です。六文銭がこれだけあちこちに観られると云うことは真田氏の関連とすぐに解る寺院です。
上田大神宮脇の細い路地を入ると海禅寺の冠木門があり、細い参道を更に進むと山門、本堂があります。真田昌幸が上田城の鬼門除けとして海禅寺をこの地に移したそうです。本堂の屋根の上部や瓦には六文銭が刻まれていて真田家との関係をうかがい知ることが出来ます。境内には中台にハートマークが彫られた石灯籠がありました。良いものを見つけた感じです。 上田城や真田神社は大変混んでいましたが、こちらは他に観光客はおらず...
歴史あるお寺。かつては、豪族の滋野氏、海野氏の庇護を受けた。真田氏の上田城築城にあわせ、現在の位置に引っ越す。隣の東御市にはかつてお寺があった地域に、海禅寺の地名が残っています。
大寺というにふさわしい堂々たる構え
草創は少なくとも平安期。上田市内の古刹としては、ここが最右翼でしょう。 長く続く石畳の参道から、一段高くなった場所に山門、本堂を構えて、まさに大寺というにふさわしい堂々たる構え。真田昌幸の上田城築城に際し城の鬼門除けのためにここに移されたものです。
上田城の鬼門除け
もともとは海野郷にあった開善寺を、真田昌幸が移転したとのこと。真言宗のお寺です。境内はとても気持ちよく、こころが落ち着きました。
特徴ある山門代わりの鳥居と一直線の参道が印象的な寺院でした
ここには大変な数の桜の木がありました。花の季節には若干早い時期だったのでまだ、つぼみ状態でしたが、開花すればさぞかし美しかろうと推測出来ます。ここは1583年に真田昌幸が上田城を築城した際、城の鬼門除けのために大手の東北にあたる当地に隣接の東御市から移転させた寺院です。六文銭がこれだけあちこちに観られると云うことは真田氏の関連とすぐに解る寺院です。
真田昌幸が上田城の鬼門除けとした寺院
上田大神宮脇の細い路地を入ると海禅寺の冠木門があり、細い参道を更に進むと山門、本堂があります。真田昌幸が上田城の鬼門除けとして海禅寺をこの地に移したそうです。本堂の屋根の上部や瓦には六文銭が刻まれていて真田家との関係をうかがい知ることが出来ます。境内には中台にハートマークが彫られた石灯籠がありました。良いものを見つけた感じです。 上田城や真田神社は大変混んでいましたが、こちらは他に観光客はおらず...
滋野氏、海野氏の時代から続く古いお寺
歴史あるお寺。かつては、豪族の滋野氏、海野氏の庇護を受けた。真田氏の上田城築城にあわせ、現在の位置に引っ越す。隣の東御市にはかつてお寺があった地域に、海禅寺の地名が残っています。